小泉今日子『見逃してくれよ!』、キョンキョン80年代最後の輝き
1990年2月リリース、3月12日週オリコン1位を獲得。80年代を象徴するアイドル・キョンキョンの90年代序盤の代表曲。
10代から二十代後半に差し掛かった小泉今日子の、少し大人寄りの楽曲。80年代のアイドル一色の時代から脱皮を始める時期で、こちらを見据えるような視線のジャケットが象徴的だった春。
SPRING · 1990
平成2年 · 3・4・5月 · 全 68 件
バブルの足元が静かに崩れ始めた三ヶ月。3月27日に大蔵省が不動産融資の総量規制を通達し、4月初めに日経平均は28,000円台まで暴落。それでも街はまだ明るく、千代の富士が史上初の通算1000勝を達成し、ポール・マッカートニーが初来日し、大阪では花博が開幕した。DCブランドから渋カジへの移行、新車ラッシュ、一番搾りとC1000タケダの登場——そんな春。
この季節を、シンヤの声で聴く1990年2月リリース、3月12日週オリコン1位を獲得。80年代を象徴するアイドル・キョンキョンの90年代序盤の代表曲。
10代から二十代後半に差し掛かった小泉今日子の、少し大人寄りの楽曲。80年代のアイドル一色の時代から脱皮を始める時期で、こちらを見据えるような視線のジャケットが象徴的だった春。
1990年3月リリース、3月26日週オリコン1位。布袋寅泰(元BOØWY)と吉川晃司の組んだスーパーバンドCOMPLEXの代表曲。
曲名そのものが時代の名前。元BOØWYのカリスマギタリストと、ボーカル&フロントマンのスーパースターが組んだバンドが、年の名前を背負って届けた一曲。短命だったがロック史に強烈な印象を残した。
1990年3月14日リリース、4月9日週オリコン1位。Bananaramaのカバーで、相田翔子と鈴木早智子の無表情パフォーマンスが時代の象徴に。
笑わない、揺れない、ユニゾンで歌うアイドル像。80年代の元気な笑顔のアイドルから完全に逆を行く存在感で、多くの模倣を生んだ。原曲は英国Bananaramaの1984年のヒット。
1990年3月1日リリース、4月30日週オリコン1位。岸谷香(奥居香)の作詞作曲によるアップテンポなロックナンバー。
前年の『Diamonds』『M』で頂点を極めたプリプリの、軽快な続編。女性バンドが武道館を満員にできる時代を作った彼女たちの、春らしいエネルギーの一曲。
1990年3月14日リリース。コーセー化粧品『リサージ』CMソングで、年間オリコン上位の春前半ヒット。
アイドル後期の工藤静香の代表曲。中島みゆき作詞・後藤次利作曲のラインで、化粧品CMの妖艶さを背景に春の街に響いた一曲。同じ春に『千流の雫』もリリースされ、彼女の表現が立て続けに広がった季節。
1990年3月21日リリース、37thシングル。オリコン最高10位。フジテレビ系ドラマ『日本一のカッ飛び男』主題歌、サントリー『シードル』CFソング。
田原俊彦が主演したフジのドラマ主題歌であり、サントリー・シードルのCMソングも兼ねた二枚看板のシングル。80年代アイドルの王者だったトシちゃんが、90年代へ移ろうとする時期になお発していた華やかさが残る1曲。
1990年3月21日リリース、デビューシングル。オリコン最高4位。日産自動車のCMソング。
TBS『三宅裕司のいかすバンド天国』でグランドキングになった、沖縄・石垣島出身の三人組のメジャーデビュー曲。素朴であたたかな歌声が新鮮に受け止められ、日産のCMにも乗ってチャートを駆け上がった。バンドブームの中でも飛び抜けて息の長い存在になっていく出発点。
1990年3月にビルボードHot 100で3週連続1位。アルバム『Rhythm Nation 1814』からの第3弾シングル。J-WAVEの1990年間ランキングで4位。
1990年に5曲をトップ10へ送り込んだジャネット・ジャクソンの、その年を象徴する軽快なファンクポップ。日本のFMでも頻繁にかかり、J-WAVEの年間チャートにアルバムの曲が複数入るほど支持された。踊れて口ずさめる、洋楽が一番元気だった頃の音。
1990年3月にビルボードHot 100で1位。膨大なラジオ・エアプレイを記録した、カナダ出身シンガーのヒット。
エルヴィス・プレスリーへの想いを込めた、ねっとりと渋いブルースロック。力強いボーカルと唸るギターが洋楽FMのリスナーに強い印象を残し、1990年春の全米No.1に輝いた。ダンスポップ全盛の中で異彩を放った1曲。
1990年4月4日リリース、年間オリコン1位(160万枚超)。アニメ『ちびまる子ちゃん』エンディングテーマで、近藤房之助・坪倉唯子のボーカル。
近藤房之助のブルージーなボーカルと坪倉唯子のソウルフルなコーラスが、子どもアニメの主題歌としては規格外のクオリティを持っていた。サビの『ピーヒャラピーヒャラ』が日本中の家庭の食卓に響き、世代を超えて愛された春。
1990年4月リリース、映画『プリティ・ウーマン』主題歌として全米2週連続1位。スウェーデンの男女ポップデュオの代表曲。
ジュリア・ロバーツとリチャード・ギアの大ヒット映画と一体になって世界に広がった。マリー・フレデリクソンの伸びやかなボーカルと、ペール・ゲッスルのプロデュース。空港のラウンジから美容室のBGMまで、夏に向けて世界中で流れた。
1990年4月4日リリース、1stシングル。10万枚限定販売。イカ天『輝く!日本イカ天大賞』ベスト・ソング賞を受賞。
イカ天の大賞でベスト・ソング賞を受賞した楽曲で、メジャーデビューは10万枚限定で出され即完売した。ファンクとソウルを取り込んだ熱量のあるサウンドが、バンドブームの中でも一段濃い存在感を放っていた。
1990年4月21日リリース、4thソロシングル。オリコン最高4位。1990年公開の角川映画『天と地と』イメージソング。
TM NETWORKで時代の音を作っていた小室哲哉が、角川映画『天と地と』のために書いたソロのイメージソング。バンドとは違うスケールの大きいサウンドで、のちにプロデューサーとして1990年代を席巻していく彼の、ソロとしての可能性を見せた1曲。
1990年5月5日リリース、5月14日週オリコン1位。深夜TBS『イカすバンド天国』で5週連続キング獲得後のデビューシングル。
ランニングシャツに丸メガネ、おもちゃのような楽器。商業ロックの枠から完全に外れたバンドが、まさかのオリコン1位を獲得した春。アマチュアの異物が突然テレビに引きずり上げられる『イカ天』カルチャーの象徴。歌詞の不条理さと素朴な演奏が、バブル末期の異物として刺さった。
1990年5月9日リリース、5月21日週オリコン1位。中島みゆき作詞・後藤次利作曲の大人寄りバラード。
アイドル出身ながら大人の歌い手へ脱皮していく工藤静香の、転換期の一曲。中島みゆきの言葉が、彼女の少し陰のある表情と重なって、80年代アイドル文化の終わり方を示した。
1990年5月16日リリース、5月28日週オリコン1位。フジテレビドラマ『恋のパラダイス』主題歌で、氷室ソロ第5弾シングル。
BOØWY解散後の氷室京介ソロ第5弾。低音から伸び上がるサビ、80年代ロックの体温を保ちながら90年代の音場へ歩み出す一曲。同じ春にCOMPLEXで布袋寅泰も1位を取り、BOØWY元メンバー2人が同じ季節にチャートに立った象徴的なシーズン。
1990年5月25日リリース、B'zの4枚目シングル。秋の『Easy Come, Easy Go!』ブレイクの直前期に位置する春後半のシングル。
稲葉浩志のボーカルと松本孝弘のギターのコンビが、まだ大衆的なブレイク前で、ファンの間でじわじわと熱狂が育っていた時期の作品。テレビ出演のないバンドという珍しさと、ライブハウスを破裂させる勢いが、口コミで広がっていく一曲。
1990年5月22日リリース、渡辺美里自身による作詞作曲のシングル。西武球場ライブの常連シンガーの春の一曲。
10代から西武球場の単独公演を埋めていた渡辺美里の、自分の言葉で歌う第二章。バブル末期の都会の若い女性が、肩肘張らずに恋愛と仕事と未来を歌える、そんな声の手触り。
1990年5月20日リリース、米英他10ヶ国以上で週間1位。ニューヨークのクラブシーンで生まれた『ヴォーグダンス』を世界に広めた金字塔。
アルバム『I'm Breathless』からのリードシングル。マドンナがLGBTQ+カルチャーへのリスペクトを込めて作り上げた一曲で、モノクロのミュージックビデオは映像史に残る完成度。日本でもMTVと洋楽専門誌を通じて若者に広く届いた。
1990年5月5日リリース、2ndシングル。オリコン最高17位、累計約11万枚。TBS系ドラマ『予備校ブギ』主題歌。
小沢健二と小山田圭吾のデュオが、TBSのドラマ『予備校ブギ』の主題歌として放った1曲。おしゃれで軽やかなギターポップが、のちに『渋谷系』と呼ばれる音楽の流れの先触れになった。チャート的には派手でなくても、その後の音楽地図を変えた春のシングル。
1990年5月9日リリース。チューリップが1973年に発表した楽曲のカバー。累計約40万枚で、第41回NHK紅白歌合戦に出場。
白いTシャツとジーンズで一世を風靡した吉田栄作が、チューリップの名曲をカバーして自身最大のヒットにした1曲。俳優としての人気の絶頂で歌でも紅白に立ち、トレンディドラマ時代のさわやかな男性像をそのまま音にしたような存在だった。
1990年5月21日リリース、14thシングル。オリコン最高9位。ライオン『バン16』のCMソング。
ライオンの洗剤『バン16』のCMソングとして発売された、のりピー全盛期の1曲。原宿の歩行者天国での発売記念ライブの映像がそのままビデオクリップに使われ、当時のアイドルと街の距離の近さがにじむ、王道のアイドルポップ。
1990年1月25日リリースの3rdシングル。3月〜4月にかけてオリコン週間1位を獲得し、年間3位の大ヒットに。
渡瀬マキの伸びやかで爽快なボーカルと、ストレートなロックサウンド。ドラマ『追いつめられて』主題歌として春に火がついた。重いギターでも爽やかでもない、ちょうどいい疾走感で、若者が春の夕方に車で流したい曲の代表格になった。
1989年11月リリース、TBSドラマ『そんなまさかの結婚生活』主題歌。1990年春までチャートに残り続けたドリカム本格ブレイク曲。
前年秋にひっそりとリリースされた曲が、年を越えて春に大きく広がった。吉田美和の伸びやかな声、中村正人のソウルフルなアレンジ。バブル末期の都会の朝に聴くと、不思議と前向きになれる一曲だった。
1989年12月1日リリース、1990年春までロングセラーで売れ続けた。後のX JAPANを世間に知らしめた壮大なロックバラード。
それまでアンダーグラウンドだったヴィジュアル系の音楽を、お茶の間の主婦が口ずさめるバラードに変えた。YOSHIKIの作るピアノとオーケストレーション、TOSHIの限界まで伸ばす歌声。春の雨が降る夜に聴くと、いつもより深いところに届いた。
1990年1月8日シングル発売、世界26ヶ国で週間1位、米英で4週連続1位。Princeの楽曲をシニード・オコナーがカバーした不朽の名曲。
丸刈り頭、白いバックを背景に、伏し目がちのアップだけで構成されたミュージックビデオ。涙が頬を伝うあの瞬間が、世界中の若者の心に残った。プリンス作の楽曲を、彼女が自分のものとして歌い直した、1990年世界最大のヒット。
1990年1月16日リリース。フジテレビ系アニメ『ドラゴンクエスト』エンディングテーマ。累計約40万枚。
フジテレビ系アニメ『ドラゴンクエスト』のエンディングテーマとして、ゲームブームと重なって幅広い世代に届いた。徳永英明のハイトーンボイスが旅立ちの情景と結びつき、1990年の冬から春のチャートに長くとどまった。
1990年1月24日リリース、2ndシングル。オリコン週間1位、累計約22万枚。
活動休止を経て復帰した一発目のシングルで、バンドにとって唯一のオリコン週間1位を獲得した。退廃的でゴシックなサウンドが当時の若者に衝撃を与え、のちのヴィジュアル系の流れへつながっていく。桜井敦司の作詞、今井寿の作曲。
1990年1月24日リリース、5thシングル。オリコン最高2位。3rdアルバム『参』の先行シングル。
岡本健一・成田昭次・前田耕陽・高橋和也によるジャニーズ系ロックバンドの5枚目。ハードロックとアイドル性を併せ持つスタイルが1990年の春まで支持を集め、紅白歌合戦にも出場した、バンド形態のジャニーズという当時としては異色の存在。
1990年1月25日リリース、9thシングル(両A面)。オリコン最高5位。『道』は江崎グリコ・ポッキーのCMソング、『青春』は日本テレビ系ドラマ『いけない女子高物語』主題歌。
『道』がグリコ・ポッキーのCM、『青春』が日テレのドラマ主題歌という二つのタイアップを持つ両A面。森高千里が自ら作詞した『道』のまっすぐな言葉づかいが話題になり、年明けから春にかけてチャート上位に居続けた。
1989年11月リリース、1990年初頭にビルボードHot 100で4週連続1位。アルバム『…But Seriously』の先行シングルで、1990年3月に来日公演を行った。
路上に生きる人々へまなざしを向けた重いメッセージを、フィル・コリンズの抑えた歌声が運んだ全米No.1。1990年の年明けの深夜ラジオでよく流れ、3月には来日公演も行われて、日本でも知名度の高い1曲だった。
1990年1月にビルボードHot 100で3週連続1位。アルバム『Soul Provider』は全米で数百万枚を売り上げた。
太く張り上げる歌声でアダルト・コンテンポラリーを引っ張ったマイケル・ボルトンの代表曲。1990年初頭の日本の洋楽ラジオでも広く流れ、この時代のパワーバラード・ブームを象徴する1曲として受け止められた。
1990年2月21日リリース、B'zの3枚目シングル。アルバム『Break Through』からの先行シングルで、オリコン週間39位と初のチャートイン。
まだメディア露出の少なかったB'zが、3枚目で初めてオリコンに名前を載せた瞬間。後年の華々しいヒットからは想像しにくい『下積み時代』の最後の影。同年秋の『Easy Come, Easy Go!』で1位3週連続まで一気に駆け上がる、その始動の春。
1990年2月14日リリース、2ndシングル。オリコン最高3位、累計約26万枚。
大阪出身のバンドの2ndシングルで、自身初のトップ3入りとなった最大ヒット。スカとポップを掛け合わせた跳ねるサウンドと、贈り物を並べていく歌詞の語り口が親しまれ、1990年のバンドブームの代名詞のように街で鳴っていた。
1990年2月15日リリース、2ndシングル。オリコン初登場1位、累計約26万枚。宮沢りえ主演のフジテレビ系ドラマ『いつも誰かに恋してるッ』主題歌。
小室哲哉プロデュースで、宮沢りえ主演のフジテレビ月9ドラマの主題歌として発売された。デビュー2作目で初登場1位を獲得し、当代きってのCM女王だった彼女が歌でも頂点に立った。アイドルから本格的な歌手への移行を印象づけた1枚。
1990年2月7日リリース、4thシングル。オリコン最高2位。ミズノ『ケルビンサーモ』CMソングで、トッド・ラングレンがプロデュース。
高野寛が敬愛するトッド・ラングレンを迎えて作られ、ミズノのスキーウェアのCMソングになった、自身最大のヒット。フジテレビ『ねるとん紅鯨団』のスポンサー枠で半年流れ続けたこともあり、ポップで爽快なメロディが冬から春の空気に溶け込んだ。
1990年2月7日リリース。オリコン1位、累計約26万枚。CHAGE and ASKAの飛鳥涼が作詞・作曲。
飛鳥涼が作詞・作曲を手がけ、デビューからの連続オリコン1位を8作に伸ばした記念碑的シングル。ハードロック調の曲を、ローラースケートを履いて滑りながら歌う光GENJIのパフォーマンスとともに、当時の小中学生を熱狂させた。
1990年2月にビルボードHot 100で3週連続1位。日本でもポニーキャニオンから8cmCDシングルが発売された。
アニメのキャラクター『MCスキャット・キャット』と踊り歌う型破りなビデオが話題を呼んだダンスポップ。日本でも正式にCDが出て、FMラジオで繰り返しかかった。ダンスとMVで魅せる、まさに1990年初頭らしい全米No.1。
1990年2月リリース、同年6月にビルボードHot 100で1位。ビルボードの1990年間1位シングルで、J-WAVEの1990年間ランキングでも3位。
ビーチ・ボーイズやママス&パパスのメンバーを親に持つ三人の女性が組んだトリオのデビュー曲。澄んだハーモニーと前を向くメッセージが日本のFMリスナーにも広く受け入れられ、J-WAVEの年間チャートで3位に入るほど親しまれた、1990年を象徴するコーラスポップ。
1989年12月27日リリース、4thシングル。オリコン最高2位、1990年年間19位。スポーツ用品店アルペンのCFソング。
バンドブーム全盛の1989年末に出て、1990年春まで長くチャートに残った女性ロックバンドの最大ヒット。スキー用品店アルペンのCMに乗った明るいサウンドが支持を集め、年間19位という成績が年をまたいだロングヒットを物語っている。
1990年3月27日、大蔵省銀行局長が金融機関に不動産向け融資の伸び率を貸出全体以下に抑えるよう通達。1991年12月まで約1年9ヶ月続き、バブル崩壊の引き金になった。
通達を出したのは当時の大蔵省銀行局長・土田正顕、大蔵大臣は橋本龍太郎。地価高騰を冷ますための行政指導だったが、結果として『失われた10年』の入口になった。当時、街の人は誰もこれが歴史の分岐点だとは気づいていなかった。
1990年2月19日の第39回衆院選で自民党が安定多数を確保。リクルート事件の余波が残る中、海部俊樹首相が政権基盤を固めた春。
リクルート事件で竹下登が退陣し、宇野宗佑を経て1989年8月に発足した海部内閣。1990年春は世代交代を進めながら政治改革の議論が走り出した時期。消費税3%の定着、湾岸危機前夜の静けさ。
1990年4月2日、日経平均株価は28,002円まで暴落。1989年末の最高値38,915円から3ヶ月で約28%下落した。
年初には4万円近かった日経平均が、3月の総量規制と続く金融引き締めで一気に値を崩した。それでも土地神話はまだ生きており、マンション価格は上がり続け、夜の街は変わらず光っていた。崩れているのは数字の中だけ、と多くの人が思っていた春。
1990年4月1日、三井銀行と太陽神戸銀行が合併。総資産で当時世界最大級の銀行となった(後にさくら銀行→三井住友銀行)。
バブル末期の都市銀行再編の象徴。日本の銀行が世界の上位を独占していた時代の最後の輝き。合併発表時には『日本経済の象徴』と歓迎されたが、数年後にはその巨体が不良債権で軋み始める。
1990年4月12日、日本アニメーション制作のテレビアニメ『楽しいムーミン一家』がテレビ東京系で放映開始。
原作はフィンランドのトーベ・ヤンソン。1969年に日本でムーミンが放送されて以来21年ぶりの新シリーズで、原作により忠実なファンタジー世界に仕上げられていた。土曜夕方の家族時間に流れる、北欧の柔らかい色彩が、バブル末期の都会の家族にひととき別の風景を見せた。
1990年1月7日放映開始のアニメ『ちびまる子ちゃん』は、春を迎えて視聴率が急上昇。秋に39.9%の歴史的高峰を記録する助走期。
フジテレビ系列・毎週日曜18:00〜18:30の放送(夜ではなく夕方の時間帯で、家族が夕食を取る時間に重なっていた)。さくらももこの脱力ユーモアが日曜の夕方の家族の時間に滑り込んできた。エンディングのおどるポンポコリンが、子どもから大人まで口ずさめるテーマソングとして広がっていった春。秋の視聴率39.9%は、この春の地盤の上に起こった現象だった。
1990年3月26日、第62回アカデミー賞授賞式で黒澤明監督が特別名誉賞を受賞。日本人映画監督として初。
ジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグがプレゼンターを務めた歴史的瞬間。黒澤監督はスピーチを日本語で行い、英訳は通訳が読み上げた。語った言葉は『このような名誉ある賞を頂いて光栄ですが、自分が受けるに値するか少し心配です。なぜなら私はまだ、映画というものがよくわかっていないからです』。会場は最初笑いに包まれたが、世界の巨匠の謙虚な真意を悟って静まり返った。1990年8月公開の『夢』を控えたタイミングでの受賞だった。
1990年3月3日〜13日、ポール・マッカートニーがソロ初来日。東京ドームで6公演を行い、計約30万人を動員した。
ビートルズ時代の1966年の来日以来、24年ぶりのポール。1980年の麻薬所持事件で来日が叶わなかった経緯もあり、ファンの待望は凄まじかった。東京ドームを揺らした『Hey Jude』の大合唱は、バブル日本に降りてきた特別な春の出来事として語り継がれている。
1990年3月13日、角川書店が情報誌『東京ウォーカー』を創刊。エリア別の店・イベント情報を週刊で届ける街歩き型雑誌の幕開け。
『Hanako』が女性目線の高級・トレンド寄りなら、『東京ウォーカー』は男女共用で街全体を地図のように見せた。バブル末期、東京がどんどん拡張していた時期に、まだ手書きの地図と電話番号で店を探す文化があった。創刊号は表紙に何を載せたか——その情報すら今では懐かしい。
1990年春、若者ファッションはDCブランドの絶頂から渋カジへ。紺ブレ・リーバイス・ルイ・ヴィトンを組み合わせた『キレカジ』が定番化。
渋谷の街から生まれた渋カジは、80年代後半に芽生え、1990年に紺のブレザー(紺ブレ)を主体とした米東海岸トラッド寄りの『キレカジ』と、バイカー寄りの『ハードアメカジ』に二分化した。同時期にフランスのagnès b. が日本市場に本格進出し、洗練されたカジュアルが街を埋めていく。
1990年4月1日〜9月30日、大阪・鶴見緑地で国際花と緑の博覧会(EXPO'90)開催。最終的に2,312万人を動員。
1970年の大阪万博から20年。今度は『自然と人間の共生』をテーマにした緑のための万博だった。シンボルキャラクターは『花博のはなまるくん』、ライドアトラクション、外国館。バブル末期の最後の大博覧会として、家族連れの春の休日を彩った。
1990年4月22日、北九州市八幡東区にテーマパーク『スペースワールド』が開業。スペースシャトル実物大模型がランドマーク。
新日鉄八幡製鐵所の遊休地を活用した宇宙テーマパーク。バブル景気が地方都市の再開発を後押ししていた時代の象徴。スペースシャトル『ディスカバリー号』実物大模型は北九州の風景の一部になった。2018年に閉園するまで、九州の家族の春の遠足の定番だった。
1990年3月17日、大相撲春場所7日目に平幕の花ノ国を破り、横綱千代の富士が史上初の通算1000勝を達成した。
『ウルフ』の異名で時代を背負った横綱の偉業。1955年6月生まれの千代の富士は当時34歳、満35歳まで2ヶ月という年齢で、序ノ口デビューから19年4ヶ月をかけてたどり着いた1000勝。勝利の瞬間、千代の富士はガッツポーズや派手な所作を一切見せず、いつも通り静かに一礼して土俵を降りる、それが彼のスタイルだった。貴花田・若花田・曙といった新世代に追われ始めていたが、この春の土俵の中心にはまだ彼が立っていた。半年後の秋場所では世代交代の予兆が見え始めるが、春のこの1000勝は紛れもなく彼の時代の証だった。
1990年3月24日、千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)開場。ロッテオリオンズの新本拠地として幕を開けた。
海風が強いことで知られる新球場。川崎球場時代のがらがらだった観客席から脱却し、千葉という新天地でロッテが再出発した春。後年、幕張新都心の象徴的施設となるが、開場当初はまだ周囲に何もなかった。
1990年4月4日、第62回選抜高等学校野球大会決勝で近大附属が新田に5-2で勝ち初優勝。
春の甲子園、桜と土埃の中で。プロ志望のスター選手より、地に足のついた高校チームが頂点に立った大会。1990年代に入り、高校野球は徐々にスター選手中心の劇場型へ移っていくが、この春はまだ古き良き高校野球の趣が残っていた。
1990年4月初旬、プロ野球が開幕。前年の巨人V9阻止に続き、セ・パ両リーグで世代交代の動きが見える春。
桜の散る頃のナイター開幕。ON時代の終わりと、新しい主役の登場前夜。原辰徳、清原和博、野茂英雄の入団前夜——プロ野球文化が一度の節目を迎える時期だった。
1990年の新語・流行語大賞で『ファジィ』が新語部門金賞を受賞。家電のあいまい制御技術が日常会話にまで広がった。
もともとは『fuzzy logic(あいまい論理)』という工学用語だったが、洗濯機・炊飯器・エアコンに『ファジィ制御』を搭載した家電が次々登場し、CMで連呼された結果、流行語になった。『きっちり』ではなく『なんとなくちょうどいい』を許容する時代の空気そのもの。
1990年の新語・流行語大賞で『ブッシュホン』が新語部門銀賞を受賞。プッシュ式電話機を指す愛称が広く使われた。
黒電話のダイヤル式からプッシュ式へ。当時のCMでブッシュホンがしきりに紹介され、家庭電話の進化と共に流行語になった。家の電話が公衆電話より速いという、今では当たり前のことが、家電として喜ばれた時代の空気。
1990年3月12日、トヨタ自動車が小型クーペ『セラ』を発売。バタフライドア(ガルウィング風)と全面ガラスキャノピーが特徴。
若者を狙ったスタイリッシュな2ドアクーペ。バタフライドアという独創的な扉構造で、街中で開けるたびに人が振り返った。販売台数は予想を下回ったが、バブル期日本がデザインに賭けた挑戦作として今も語られる。
1990年5月7日、三菱自動車が4ドアセダン『ディアマンテ』を発売。同年カー・オブ・ザ・イヤー受賞。
三菱がトヨタ・クラウンや日産・セドリックに本格挑戦する形で投入した高級セダン。直線基調のクリーンなデザインと、シーラインを意識した内装。バブル期の都市部のミドルアッパー層が乗る車として、新しい選択肢を提示した。
1990年5月12日、トヨタ自動車が初代エスティマを発売。卵型のボディシェイプから『天才タマゴ』のキャッチコピーで売り出された。
ミッドシップエンジンレイアウトという当時としては挑戦的な設計のミニバン。家族と荷物を運ぶ車に『未来的なデザイン』を本気で持ち込んだ意欲作で、CMの『天才タマゴ』は誰もが覚えていた。日本のミニバン文化の出発点。
1990年5月14日、日産自動車がステーションワゴン『アベニール』を発売。90年代のワゴンブームの先頭を切る形に。
セダンとミニバンの間を狙ったステーションワゴン。アウトドアブームと相まって、家族で出かける車の選択肢を一気に広げた。後のスバル・レガシィ、トヨタ・カルディナと並んでワゴン文化を育てた一台。
1990年3月1日、麒麟麦酒が『キリン一番搾り生ビール』を発売。麦汁の一番搾り部分だけを使う製法で、爽やかな飲み口を提供。
アサヒ『スーパードライ』の大ヒットを追う形で、キリンが投入した新たな看板商品。『一番搾り』というネーミング自体が、製法をそのままブランドにした分かりやすさで定着。バブル末期の居酒屋と家庭の冷蔵庫を一気に染めていく。
1990年2月6日、武田食品工業から『C1000 Ca&Mg』など3種が発売。1本にビタミンC1000mgを含む小瓶ドリンクのロングセラーブランドの始まり。
レモン50個分のビタミンCをひと口で——というキャッチフレーズで定着。コンビニのレジ脇に並ぶ小瓶として、サラリーマンと学生の朝のお供になった。当時は『タケダ』ブランドのCMで知名度を上げ、35年以上のロングセラーへ。
1990年3月10日からオンエアされたマクセルのカセットテープ『NEW UDシリーズ』のCMで、TMNの『THE POINT OF LOVERS' NIGHT』が使用された。
1月末にCM用イメージソングとしてレコーディングされた一曲で、シングルとして7月7日にリリースされる前から、テレビでフレーズだけが先行して流れていた。カセットテープ文化の最終盤期、CMが楽曲を育てる王道の形が機能していた頃の話。
1990年3月10日、JR京葉線の東京〜蘇我間が全線開通。湾岸エリアの一大動脈となった。
東京駅の地下深くにある京葉線ホームは、丸の内地下街から長い動く歩道を経てたどり着く名物。開通によりディズニーランド・幕張メッセ・千葉マリンスタジアムへのアクセスが劇的に改善し、湾岸の街並みが変わり始めた春。
1990年3月20日、大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線の京橋〜鶴見緑地間が開業。花博会場へのアクセス線として登場。
日本初の鉄輪式リニアモーターカー方式の地下鉄。小型車両でカーブを多く取れる路線で、花博開幕の10日前に駆け込み開業した。地下鉄が市民の足を新しい技術で運び始めた、地方都市インフラの一つの節目。
1990年3月30日、京王相模原線が南大沢〜橋本間まで延伸して全線開通。多摩ニュータウンと新宿が一本でつながった。
多摩ニュータウンの拡張に合わせた延伸。新宿副都心のオフィスタワーへ、多摩の家庭から1時間以内で通えるネットワークが完成した。バブル末期、郊外の住宅地と都心の通勤地獄をつなぐ最後の大型路線整備。
ここに並べたのは、1990年春に実際にあったことの断片です。 深夜ラジオのDJ「シンヤ」は、この断片を走馬灯のように、 当時の曲を挟みながら、あなたの隣で流していきます。
1990年 春を聴く